「どんな小説を書きたいんですか」

 『発見』(幻冬舎文庫)の中で、清水義範氏が面白いことを書いていた。
 30才のアマチュア時代のことだ。
「どんな小説を書きたいんですか」
 編集者に聞かれて返答に詰まったエピソードが、そこには綴られている。

《その問いに答えられないことに自分でも驚いた。こういうものが書きたいんです、というのが頭の中にないのだ》
《要するに、まだ自分がわかっていなかったのである。自分にはこれができる、というのを掴んでなくて、ただただ、書けるはずだ、とばかり思っていた》
《まず最初に小説家になりたいと思ってしまった人間であるため、何を書きたいのか、自分で掴んでいなかった。それが、なかなか夢のかなわなかった原因なのだ》
                    (『発見』、幻冬舎文庫)

 作家志望のアマチュアが陥る過ち。
 10年以上も続く長い長いアマチュア時代を経験した人なら、余計によくわかる。自分も、同じ陥穽に10年以上はまりつづけていただけに、氏の文章が身に沁みた。
 最初に小説を書いたのは小学5年生の時。
 それから漫画家になろうとありがちな夢を懐いたけれど、中学2年の時にロマン主義時代の小説を読んで、作家になるぞと決心してしまった。以来、とにかく作家になるんだとばかりに20回近く投稿をくり返した。
 でも、新人賞を獲ることはできなかった。4次予選まで進んだのが最高で、あとは落選のゴミ。
 毎週出されるゴミのごとく、よく出るなあとばかりに落選がくり返される。
 なぜなのか、本当はわかっていたはずだった。
 都落ちして北大に入学した頃のことだ。最初に参加した先輩たちとの飲み会で、8年生の先輩に聞かれたことがある。

「鏡は、なんで作家になりたいんだ」

 答えようとして返答に窮した。
 なぜ?
 なんでなりたいんだ?
 14の時に思い立って、なぜ二十歳になっても、相変わらず作家になりたいと思っているんだろう。
 ゲーテ? それは単なるきっかけだ。きっかけは理由ではない。
 先輩は、さらに畳みかけてきた。

「鏡は、何を書きたいんだ」

 狼狽した。
 中身のない自分を言い当てられた焦りがあった。慌てて自分の中を検索してみたが、わかったのは自分が空白ということだった。
 書きたいものなんて、一かけらもなかった。
 ただ、作家になりたいという気分しか、二十歳の自分にはなかったのだ。

「何か追い求めるものがなければ、作家にはなれないと思う」

 先輩は、止めを刺すように言い放った。
 脳震盪を起こしたような気分だった。
 作家になると決めているくせに書きたいものは何もないという、自己の矛盾を思い知らされたのだ。しかも、それこそが自分がアマチュアでいる理由だった。
 はじめから作家になりたいと思ってしまったために、何を書きたいのかという部分が置き去りにされてしまったのだ。
 でも、自分は書きたいものを見つけられなかった。いな、真剣に見つけようとはしなかった。
 「書きたいこと」から逃げて「書くこと」だけに狂奔した。
 多分、怖かったのだと思う。
 書きたいものを見つけようとすると、自分には書きたいものがないという事実と対面しなければならない。
 自分は何を書きたいのだろう。
 書きたいことなんて、何もないじゃないか。
 ないのに、なぜ小説を書くんだ? なぜ作家になりたいと思うんだ?
 ただのまねっこか、功名心じゃないか。
 「自分には書くものなんて存在しない」という真実を認めることは、二十歳の自分には、自分を完全に否定するように思えたのだ。
 結果は、18戦18敗。
 予選通過はわずか2回。
 「書きたいこと」から遠ざかりつづけた、当然の結果だった。
 転機が訪れたのは、書きたいものがないことを受け入れてからだ。普通の小説の世界では、自分が訴えたいこと、どうしても書きたいことはない。でも、ポルノなら、叫ばずにいられないことがある。
 そう気づいて、初めてアマチュアの枠が外れた。

 高校生の時、『りぼん』という少女マンガ誌を読んでいて、愕然としたことがある。
 それは、奨励賞を獲った小学校6年生の女の子の、短いインタビューだった。
 どんなお話を書きたいですか?
 そう問われて、11歳の女の子はこう答えていた。

 ──みんなが読んで心があったかくなるようなお話を書きたいです。

 作家になりたいと思う人。クリエイターになりたい人。
 あなたはどうだろうか。
 小学6年生の女の子が到達していた地点に、達しているだろうか。

                     鏡裕之【乳之書】より
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