鏡が思うに、親離れするとは、ただ経済式に自立することではない。
そうではなく、親を一人の人間として捉え直すことである。
親を親として見ている限り、親離れはありえない。
 自分の親を、一人の人間としてではなく親として見るということは、
自分と親とを「親−子」という関係性で捉えているということである。
 「親−子」の関係性で自分と親を捉える時、
「親」の側にあるのは自分ではなく親である。
「子」の側にあるのは自分である。
つまり、自分は子供側の立場にいると前提しているわけだ。
これは、果たして成熟した大人の態度だろうか? 
親の前では、
「自分は子供側」と自分を位置づけてしまう態度は、果たして大人だろうか?
子供側として自分を位置づけるというのきは、
「ぼくは子供です」「まだまだ親の前では子供でいたい」
と主張しているようなものである。
 「親−子」で捉えようとすると、
「どうして親はわかってくれないんだ」
「どうして親は、(当然のことを)してくれないんだ」
なんて不満がたまってしまう。
それは、親に甘えているからそうなるのだ。
そういう態度は、親離れとは言い難い。
 どんなに経済的に自立したところで、
自分と親とを「親−子」の関係性で捉える限り、親離れにはならない。
親離れするためには、自分と親とを、
「親−子」の関係性、「親−子」の上下関係で捉えるのではなく、対等の人間性として捉えることが必要だ。
 親を親として見るのではない。
親を一人の人間として再評価しなおすこと。
一人の人間としての強さと弱さ、長所と短所をクールに見つめ直すこと。
批判するのではなく、いいところも悪いところも含めて再評価すること。
つまり、対等の人間性として見ること。
その視点のなかに、子供としての甘えはない。
 親を一人の人間として捉え直すということ。
決して批判しないこと。
批判するのは、
まだ自分の中に子供としての立場、
自分を庇護してくれる親として相手を見ようとする精神が
残っているから起きることである。
 人間として、親がどんなレベルなのか。
人間として、親がどんな長所を持ち、どんな短所を持つのか。
それを捉え直すこと。
人間として総合的に捉えること。
そうした視点を得て、
初めて、自動的に自分に襲いかかる「子供としての甘え」から脱却し、
一人の人間として、一人の人間である親を優しい視線で眺められるようになる。
その境地に辿り着いて、初めて親離れしたと言えるようになるのだ。
 親に不満を洩らしている限り、親離れはありえないのである。

                     鏡裕之【乳之書】より
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